「大丈夫かい、内村君」
「これくらいどうってことはありません。これでも僕は医者ですよ。ハハハ」
すっかり酔っ払った内村は折原に支えられながらマンションの玄関に向かう。危うく階段を踏み外しそうになった内村は、折原に抱きとめられる。
「あ、危ない! 気をつけたまえ」
「……すみません、先生。おかしいな、ハハ」
どうにか二人はマンションの、内村の部屋にたどり着く。
「どうぞ、散らかっていますが」
内村はおぼつかない手つきで鍵を空けると、折原を部屋に招き入れる。かなりの広さがあるその部屋は内装も、家具・調度類も豪華だが、内村が言うとおり酷く散らかっている。
(無理にでも京都へ帰った方が良かったか……)
その部屋の荒廃ぶりを見た折原は一瞬後悔する。しかしながら、妻の珠江と千原美沙江の失踪の謎の一端でも聞き出せるのではないかと、つい内村の酒に付き合ってしまったのだ。
六本木のバーで折原が、遠山静子夫人と親しい仲でもある妻の珠江と、珠江と静子夫人が後援する千原流の家本令嬢が失踪したことを告げると、内村はさすがに驚いた顔つきになったが、すぐに「それは小夜子と同じ筋かもしれませんね」と答えた。
「同じ筋って、どういうことだい? 君は小夜子さんの誘拐について何か知っているのかい?」
「小夜子が誘拐されたとき、僕はもちろん驚きましたが、身代金目的の誘拐なら金を払えば帰ってくるだろうと考えていました。一千万は大金ですが、村瀬宝石店にとってはそれほど痛い金額ではありません」
内村はそこで急に顔を歪める。
「僕がショックを受けたのは、身代金と小夜子の交換が失敗し、誘拐犯に対して罠を張った村瀬宝石店へ復讐するという宣言が、彼らからなされたことです。村瀬家と山崎探偵は遠縁の関係ですが、村瀬社長は山崎から誘拐犯の元には小夜子や弟の文夫君だけでなく、遠山夫人やその継娘である桂子、そして山崎探偵の助手の京子と妹の美津子まで拉致されている可能性が高いということを聞いていました。だから、身代金と引き換えに小夜子と文夫君だけが帰ってきたのでは十分でない。小夜子の踊りの師匠でもある静子夫人や、他の女性たちも取り返さなければいけないと考えたのでしょうが、それが裏目に出たわけです」
「山崎探偵の助手まで、誘拐犯の手に落ちていたのか──」
折原は先ほどあったばかりの山崎の様子を思い出す。
(山崎探偵のあの憔悴振りを見ると、京子という女性は、ひょっとして山崎にとってただの助手というだけではなかったのかもしれないな)
「僕も村瀬家とは別に、大金を使って色々な探偵を雇って小夜子の居所を調べましたが、全然駄目でした。どうも『森田組』という暴力団がかかわっていることまではわかったのですが、この『森田組』ってのが、どんなに探しても見つからないんですよ」
「それはいったい、どうしてだい?」
「普通に事務所を構え、縄張りを持っている組なら何がしかわかるはずなんですが、森田組というのはどうもそうじゃないみたいなんです。普通の暴力団とは違うある特殊な商売をしているようで、それなら事務所をおおっぴらに構えないのも分かります」
「特殊な商売とはなんだい?」
「それは……ここじゃ話しにくいな」
内村はカウンターの向こうのマスターをちらと眺める。
「ただ、もし、森田組が先生や千原流華道家元令嬢の奥様の失踪にもかかわっているのなら、ちょっとまずいことになるかも知れませんね」
「どういうことだ」
折原は思わず大きな声をあげる。
「珠江の身に危険が迫っているとでも言うのか」
「落ち着いてください、先生。命を取られるようなことはありませんよ、たぶん──そうだ、今晩は僕のマンションに泊まりませんか? 先生に面白いものをお見せしますよ」
内村はそう言うと、グラスのウィスキーをぐっと飲み干した。
「飲み直しませんか? 先生」
内村は部屋のホームバーでロックを作っている。
「いや、酒はもういい」
「そうですか……僕は飲みますよ。飲まなければ聞いていられませんからね」
内村は手に持ったグラスから一口ウィスキーを飲むと、部屋のオーディオ装置のスイッチを入れる。テープレコーダーが回りだし、かすかな雑音が聞こえ出す。
「それじゃ、さっき申し上げた、面白いものをお聞かせします。いいですか、先生」
内村はそう言うと、ソファに座り込む。折原も釣られて内村から少し離れた位置に座る。やがてスピーカーから、女のすすり泣き交じりの声が聞こえてくる。
(──内村さん、さ、小夜子は、今、とても幸せな毎日を過ごしているの。ですから、お願い、探偵などを使って小夜子の行方を探すような真似は絶対なさらないで下さい。以前、貴方に対し、現在の小夜子の心境と人の眼には見せられない、ああいう羞かしいものまでお送りして、小夜子の覚悟を知って頂こうとしたのに貴方は、やっぱり小夜子の行方を探そうとなさっている)
「これは──」
折原は驚いて内村の顔を見る。
「確かに小夜子の声です。婚約者の僕が言うんだから間違いありません」
(──はっきりいって、今の小夜子は、貴方なんか大嫌い。小夜子を女にして下さり、日夜、調教して下さる現在の夫を小夜子は死ぬ程、愛してしまっているの。二人がどれ程仲がいいか、これから、貴方にお聞かせするわ。これをお聞きになれば、小夜子が現在、どういう女に変貌してしまっているか、はっきり、おわかりになると思います)
やがて聞こえ出す村瀬小夜子の甘い泣き声。
(小夜子は、小夜子は、あなたのものよ。お願い、小夜子を捨てないでっ)
(二度と内村春雄のことを思ったりしないだろうね)
(嫌っ、あんな人の名をもういわないで。小夜子は永久にあなたのものですわ)
ピチャ、ピチャという湿った音に小夜子の切なげな呻き声。明らかに小夜子は、男に責められて性的に興奮している。
婚約者のそんなあられもない声を聞いている内村の顔は次第に青ざめてくる。
(春雄さんっ。小夜子は今、夫に抱かれて有頂天になっているのよ。おわかりになって。もう私の事など忘れて、早く、新しい恋人を――)
「ハハハ、どうだい、内村君。お嬢さんは、今、僕の愛情で、全身火のように燃えたたせて泣きじゃくっておいでだ。しばらく、聞いて頂こう」
ああっ、ああっという小夜子の声。
(これはいったいどういうことだ)
折原は胸の鼓動が高まってくるのを感じる。
(――ねえ、あなた。小夜子がどんなに今、悦んでいるか、それを、春雄さんに教えてあげたいの。ですから、マイクを――)
(よし来た)
折原の胸の中には失踪した妻がとんでもない運命に陥っているのではないかという予感が込み上げてくる。山崎が折原に対して妙に無愛想で、遠山静子夫人や村瀬家の令嬢など、妻と縁が深い女性たちの現状について何も言わなかったのは、探偵としての守秘義務を守るためだけだはなかったのだ。妻の失踪に取り乱している折原に追い打ちをかけるようなことをしたくなかったのだ。
「どうだい、内村君。レコーダーのマイクは小夜子嬢の臍の上だ。彼女の演奏する素晴らしいセレナードが聞こえるだろう」
「――ああ、は、春雄さんっ。ゆるして!」
やがて獣が吼えるような小夜子の声。他の男の手によって明らかに性的絶頂に達した婚約者の様子を、内村は氷のような表情で聞いている。
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