『花と蛇』は奇ク誌上だけでも昭和37年から46年まで足掛け10年という、この分野では他に類を見ない長期連載となったが、これには次のような理由が考えられよう。
まず、作者である団鬼六氏の筆力が他の作家に比べ群を抜いていたことである。いまでこそ、この分野を描く作家は百花僚爛の様相があるが、『花と蛇』連載開始当時、団氏と他の作家の筆力には、まるで草野球の試合でいきなりプロのピッチャーが投げ始めたくらいの格差があった。
それも当然で、奇クの他の作家の作品は一部の例外をのぞいては読者が自分の性癖をつたない文章でつづった、ほとんど素人の域を出ないものであったのに対し、団氏は登場時において既に堂々たる中間小説のプロ作家だったのである。
団鬼六氏は本名黒岩幸彦。昭和6年、滋賀県彦根市に生まれる。関西学院大学法学部卒業。学生時代に井原西鶴に傾倒し、昭和32年『親子丼』でオール読物新人杯に入賞、同年、処女小説集『宿命の壁』が出版され、続いて翌年発表した『大穴』がヒット、松竹で、高島忠夫主演で映画化もされている。
しかし団氏が『花と蛇』の執筆にあたってプロ作家に徹したかというと、実はそうではない。『花と蛇』にはこの道のマニアのみが知覚できる一種の毒、または病気のようなものがある(それが具体的にどういうものかについては後述する)。
奇クの誌面は当時のライバル誌である「裏窓」および「風俗奇タン」が創作中心であったのに比べ、体験記を主軸として構成されており、いわば読者参加型雑誌であった。団氏は『花と蛇』の執筆にあたって、そういった奇クの誌面の持ち味を活かし、意識的にプロ作家的な小説構成を無視しており、それが本作品が奇クの読者に違和感なく受け入れられた主因ともいえよう。
(その証拠に一時奇ク誌上で「『花と蛇』は小説か読物か」という、興味深いが一種不毛な論争が巻き起こる。これについても後述したい)。
いや、違和感なくどころか、むしろ『花と蛇』は奇クの読者に熱狂的に受け入れられた。当時の読者は良質な創作に飢えていた。正確にいえば『花と蛇』の登場により読者は自分達が求めていたものが、まさにこのような作品であったことに気づいたのである。その意味で『花と蛇』はマーケティング用語でいう「ニーズ開拓型商品」であった。
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