(1)静子夫人のわからなさ
筆者の畏友であるK氏は、「『花と蛇』で一番良くわからないのは、あの静子夫人が実に変な人だということ」と言う。
実際、静子夫人はよくわからない性格の人であるが、このわからないところが実は本作品を支える魅力であったりする。
静子夫人がわからないキャラクターである具体的な点は以下の通りである。
(2)そもそも彼女はどういう経歴の持ち主か?
静子夫人は26才、遠山隆義の妻であることはわかっているが、遠山と結婚するまでの経歴が今一つ不明である。
夫人は英・仏2カ国語を完全にマスターしており、フランスには留学したこともある。小唄、日本舞踊などは名取りの腕前であり、生け花や書道の素養もある。少なくともかなりの良家の子女として育てられた大変なスーパーレディーであることは間違いない。
ところが、作品中では静子夫人の旧姓や実家のことについてはまったく触れられていないのである。
作品の冒頭で、探偵の山崎が静子夫人の義兄の友人であることが述べられているから、静子夫人にも確かに係累はいるようである。
しかし静子夫人が誘拐された後、必死で探すのは夫の遠山および、その意を受けた山崎探偵だけであり、彼女の実家なり親族なりが静子夫人を捜索している模様はない。
また、作品中で静子夫人は女中の千代によって遠山と離婚させられており、この時点で彼女は遠山の姓も無くし、「夫人」でも無くなったはずだが、その後も依然として彼女は静子夫人と呼ばれ続ける。
これは、責め手側が夫人としての昔の身分をことさらに意識させることにより、彼女に屈辱感を与えているのだとも言えるが、静子夫人という存在のそもそもの曖昧さによるものだとも考えられる。
千代が夫人に対して投げつける、「お前にはもう帰る家はないのよ」といった言葉の責めも、読者には自然に受け入れられる。なに、立派な実家があるのだからそこへ帰れば良いではないかといった野暮な疑問は生じない。読者には遠山と離婚したら彼女はどこの家の静子になるのかという情報が与えられていないのだ。
彼女は離婚させられた時点で「人妻」というアイデンティティを失ったはずなのだが、読者にそれも気づかせない。ここで結婚までの経歴が良くわからない静子夫人の存在の曖昧さが生きてくるのである。
(3)彼女は誰を愛しているのか?
静子夫人はその存在そのものだけでなく、性格的にも実に不思議な女性である。
それというのも彼女の愛情の対象がどこにあるのかが良く分からないのだ。
そもそも彼女は夫の遠山を愛しているのだろうか?
作品中で、遠山のことを気遣った発言はいくつかあるのだが、どうも彼に対して男と女としての愛情を心から抱いているとは思えない。そこには愛する夫と引き離されたという悲しみはなく、まるで娘が老いた父親のことを心配しているようである。
大体、静子夫人がどうして遠山のような自分の父親程も年齢が違う男と結婚したのか、そこも良く分からない。財産目当てとも思えないのだが。
また、作品中で静子夫人が川田や田代など、他の男に身を任せるときも、一応「桂子や京子、美津子といった他の捕らわれの女性を守るため」という理由付けはされているものの、遠山に対する貞操を守るため必死で抵抗するということはあまりないようだ。
それに、そもそも静子夫人が男に身を任せようが任せまいが他の美女達もいずれ森田組の毒牙にかかる運命であることは彼女にも分かっているのだ。
静子夫人は責め手に強制されて、他の美女達と同性愛の関係に陥る。
その場合でも、静子夫人は相手の女性に対してあまり深い執着を見せない。京子とコンビを組まされたときは、彼女に対して同性愛の関係を求めて言い寄る銀子に対し「京子と離れられない仲になった」と言って拒絶するのだが、コンビが解消された後は、京子のことはほとんど思い出す風でもない。
また、小夜子とも同じような同性愛の関係に陥ったときは、彼女が静子の踊りの弟子だったこともあり、京子との場合よりは幾分執着が深かったようだが、小夜子の静子に対する想いに比べると、ずっと淡泊である。
いわば彼女は博愛主義者なのである。彼女の愛情は時には彼女にとって憎い存在であるはずの責め手に対しても向けられる。責め手たちとからみあう静子夫人がささやく愛の言葉は、時にまるで彼女の真情から出ているかのようである。
以上のように静子夫人の愛情は一見拡散しているように見えるが、実はこれが本作品が読者をとらえて離さない魅力の一つなのである。
彼女の愛情は他の誰でもない読者に対して向けられているのだ。読者が田代屋敷の住人に乗り移って静子夫人を愛し、その幻想の中で相思相愛の関係になるためには、彼女の愛情の対象が一点に集中されていたのでは困るのである。
その意味では静子夫人は聖母とでもいうべきで、いわば宗教的存在に近い。彼女の性格のわけのわからなさもそう考えれば納得できる。宗教的存在なら奥が深く、なかなか理解が困難なのは当然なのである。
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