「あっ」
声の方を向くとマリが険しい視線を友子に向けている。
「あんまり遅いから様子を見に来たのよ。もうみんな揃っているわよ。いったい何を愚図愚図しているの」
「いや、大塚先生がなかなか奥様を離してくれへんかったから……」
「嘘いってるんじゃないわよ」
マリがピシャリと言い放つ。
「おおかたあんたが絹代夫人にちょっかいをかけていたんでしょ。明後日のショーを控えてみんな忙しく働いているのよ。もっと真面目にやってもらわなきゃ困るわ」
「そんな、真面目にやってますけど……」
「真面目にやっていてそれじゃあもともと要領が悪いってことかしら」
マリの毒舌に友子はさすがにむっとした表情になるが、マリはかまわず続ける。
「あーあ、こんな時に悦子がいてくれたら助かるんだけど。悦子があんな風になっちまったのも、元々はあんたと直江の責任なのよ。もっとしゃきっとしてくれなくちゃ困るわ」
マリはそこまで言うと絹代に「絹代奥様、ぼうっとしていないで行くわよ」と声をかけ、友子の代わりに縄尻を取って歩きだす。
一晩中順子に責め立てられた絹代は疲労の極限にある。ともすればふらふらとよろけがちな絹代を「しゃんとしなさいよ、奥様。それでも華道の家元夫人なの」と叱咤し、時折ピシャピシャとその形の良い尻を叩くのだった。
友子はその後を釈然としない顔付きのまま歩きだす。直江と二人で千原家の女中をしていた友子は、上流階級の子女を相手にゆったりとお花の生け方を教えている千原流華道の家元一家や、その後援者である折原珠江を代表する有閑夫人の優雅な暮らしぶりを目の当たりにして来た。
いくら真面目に働いても、所詮は女中の身分である自分たちと美沙江や珠江の差が縮まる筈もない。いや、それどころか働けば働くほど彼女たちに追いつけない現実をより深く認識させられ、惨めになるばかりであった。
そんな環境から抜け出すために森田組による美沙江と珠江の拉致に協力し、それを土産に葉桜団に入団したのだが、そこで待っていた生活もまた友子の理想とするところからは程遠いものだった。
確かに今まで主人として仕えて来た美沙江や絹代、そしてその同類と言える珠江を女奴隷として調教することが出来る、言わば逆転の快感は心地よいものだったが、それは必ずしも友子や直江の主導で行えるものではなかった。
首領の銀子、副首領の朱美を中心とする葉桜団には厳然とした上下関係があった。友子と直江の二人はあくまで新入りといった位置付けで、古株の義子と悦子、そして銀子の妹であるマリに劣るものだった。
悦子が久美子の脱走に手を貸そうとしたことで奴隷の地位に落ちてからも、二人の立場はさほど変わらない。いや、むしろマリが言った通り、久美子を屋敷に招き入れるきっかけとなった歌舞伎町での友子と直江の失態を咎める空気がより増して来たのである。
友子は少なくとも珠江と美沙江の誘拐に協力したことによるなんらかの分け前にありつけるのではないかと事前に期待していたが、それは物の見事に裏切られることとなった。
大塚順子は自らが主宰する湖月流華道の発展が千原竜によって妨害されていると本気で考えていた。従って順子にはそもそも営利誘拐の意図はなく、目の上のたん瘤とも言える千原流の事実上の家元である美沙江と、最大の後援者である珠江さえ消えてくれればそれで良かったのだ。
また、順子に協力した森田組も身代金目当ての誘拐の危険さは小夜子の時の経験で骨身に染みていたため、金儲けはあくまで珠江と美沙江の美しい身体を使って行うことしか考えていなかった。
要するに森田組にとっての誘拐とは、友子が直江が考えていたような一獲千金のあぶく銭が稼げる犯罪ではなく、いわば地道なビジネスだったのである。いったん事を起こした後は深く地下に潜行して自らは名前を出さずに、拉致した女たちをモデルにして撮影したポルノ写真やブルーフィルムで堅実に稼いでいく。それが森田組のやり方だったのである。
(直江と二人でせっかく危ない橋を渡ったのに、これじゃあただ働きや)
そんな友子の思いをよそに、マリは口笛でも吹き出しそうな上機嫌で素っ裸の絹代を引き立てて行く。
「そう言えば、美沙江お嬢様とは対面出来たの? 奥様」
マリがそう声をかけると絹代は哀しげに首を振る。
「何だ、友子。まだ会わせていないの?」
「美沙江は時造さんが離さんらしいから……」
「ふん、時造さんったら、よほどあのお人形さんみたいな娘が気に入ったのね」
マリはそう言って鼻で笑うと、絹代に顔を向け、
「良かったじゃない、奥様。お嬢様は花婿様と仲良くやっているみたいよ。母親としては一安心でしょう」
と言ってケラケラと声を上げて笑う。
マリの揶揄を浴びた絹代はさも辛そうに顔をしかめる。暴力団の幹部という恐ろしい男の人身御供になっている美沙江――その美沙江を救うために捨て身の覚悟で森田組に潜入したのに空しく捕らえられ、千原流華道の仇敵とも言える順子の嬲りものになっている――。
そんな惨めな自分自身を意識すると、絹代は口惜しさと情けなさから涙が滲んてくるのを止めることが出来ないのだ。
「奥様、今日は奥様があっと驚く人と会わせてあげるわよ。楽しみにしているのね」
そう言うとマリはくすくす笑い、絹代の形の良い尻をピシャピシャ叩く。素っ裸のまま縄尻を取られて廊下を引き立てられている絹代は、すべてを諦めたように顔を伏せ、時折長い睫毛を哀しげに震わせているのだ。
三人は一階まで降りて来る。地階に降りる階段の前で立ちすくむ絹代にマリは、
「階段を地下まで降りるのよ。地下室の倉庫で美紀夫人や久美子も奥様の到着を待っているわ。もちろんさっき話したスペシャルゲストも一緒にね」
と声をかける。
「さあ、行くのよ」
マリは再び絹代の尻を叩く。絹代は不安と恐怖に小刻みに裸身を震わせながら階段をゆっくりと降り始める。
地下室の倉庫の前に着いたマリは扉の前で「絹代夫人を連れて来たわよ」と声をかける。
すると扉が半開きになり中から義子が顔を出す。
「遅かったやないか」
「案の定、友子が途中で油を売っていたのよ」
「なんや、やっぱりそうか」
義子が冷たい目を友子に向ける。
「私、油を売ってなんか……」
友子が弁解しようとするのを義子が「あんたはここでええよ」と遮る。
「え……」
「二階へ行って、鬼源さんの手伝いをしとき」
義子にそう言われても、倉庫の中の様子が気になる友子はもじもじしていたが、義子がさらに「早く行きな。直江はもう行ってるで。上も人手不足で鬼源さんも大変なんや」
「わ、わかりました」
友子はようやく頷き、階段へと逆戻りする。そんな友子を見ながら義子は「なんや、あいつ。おかしなやっちゃ」と呟くと、絹代の方を向き直り、「はよ中に入って。奥さん」と声をかける。
165.敗北の兄妹(5)

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