「健一、香奈、早くしなさいっ。遅刻するわよ」
詰襟姿の健一と、紺のブレザーを着た香奈が廊下をバタバタと走ってくる。夫の達彦がそれに続いてゆっくりとしのぶのいる玄関に向かう。
「行ってきます」
2人の子供達が慌しく家を飛び出すのを見送った達彦は、靴を履くと振り返ってしのぶに軽くキスをする。
「行ってらっしゃい、あなた」
「行ってくるよ」
うっすらと頬を染めたしのぶに達彦は優しげな笑みを向けて家を出た。
加藤しのぶは大学を卒業してすぐに、中学生のころしのぶの家庭教師をしていた6歳年上の達彦と長い恋愛の末結婚して早くも15年がたつ。中学3年生の長男健一と中学1年の長女香奈の一男一女の母親である。
夫の達彦は都内にある準大手損害保険会社の課長であり、収入的には比較的恵まれている。ずっと社宅暮らしをしていたが、達彦の会社では40歳になると社宅を出なくてはならない規則があり、これを機に東京郊外のAニュータウンに一戸建てを買い、3年前に越してきたのだ。
いわゆるバブルの地価上昇時は住宅取得を諦めていたのだが、かえってそのせいで以前は考えられなかったような広い物件を買うことが出来たというわけだ。
まるで新婚夫婦のような夫のふるまいに頬をうっすらと赤らめながら、しのぶはなんともいえぬ幸福感をかみしめていた。
優しい夫と可愛い2人の子供、そして理想的な住環境。ささやかとはいえるがしのぶにとっては何ものにも代え難い幸せがそこにはあった。
(そういえば……)
香奈がちょうど、しのぶが達彦とであった年齢になる。
達彦は当時、地元の国立大学の経済学部に入学したばかりであり、中学1年のしのぶにとっては随分大人に見えた。ちょうど思春期を迎えたばかりのしのぶは、達彦に憧れめいた感情を抱いたのだが、どちらかというと奥手の達彦の方はしのぶの気持ちに一向に気づく様子はなく、静かな時が過ぎた。
しのぶが初めて達彦に気持ちを打ち明けたのは、しのぶの女子大の付属高校への合格が決まった15の春である。達彦は少し驚いたような表情を見せたが、興奮して泣き出したしのぶを優しく抱きしめ、軽い口づけをした。しのぶは思いが受け入れられた感激の中で、達彦の広い肩にしがみついた。
(香奈がもうあの頃の私と同じ年頃に……早いものだわ)
しのぶはそんな感慨にふけりながら何気なく玄関の外に出ると、周囲を見渡す。広めの庭を取った一戸建ての住宅が目の前に並んでおり、さらにその向こうには機能的な高層住宅がいくつも立ち並んでいる。
(達彦さんは今日はそろそろ「かおり」の日かしら……)
Aニュータウンは都市計画の行き届いた閑静な住宅街であるが、その反面、娯楽・遊興施設は少ない。その中で駅前のスナック「かおり」は、都心から帰る長距離通勤者の貴重な憩いの場であった。
年増で妖艶な感じのする香織ママの魅力も手伝い、「かおり」はまずまず繁盛しており、達彦も週1、2回は通っていた。金融界には再編の波が迫っており、それは達彦が勤める会社も例外ではない。忙しい仕事の中ではその程度の息抜きは必要と、しのぶも達彦の「かおり」通いを寛大に見ていた。
しかし、それがしのぶをはじめ加藤家全員を地獄の底に落とすことになろうとは、今のしのぶは知る由もなかった。
(お客様がおかけの電話は電源が入っていないか電波の届かないところに………)
無個性な合成音が繰り返され、しのぶはため息をついて受話器をおいた。時計の針はすでに夜の12時を回っている。Aニュータウンは完成してから日が浅く、これに合わせて引かれた地下鉄の新線もダイヤの調整が進んでいないためかいまだ本数が少ない。そろそろ終電がなくなる時間だというのに、達彦とまったく連絡が取れないのだ。
(達彦さん、いったいどこにいるのかしら……)
しのぶは広いリビングダイニングのテーブルに置かれた新聞に目を落とした。なにげなく番組欄に目をやると「15年目の破局 倦怠期夫婦が落ちた暗い罠」とか「死を招く温泉不倫旅行 露天風呂の惨劇」などという扇情的なタイトルが目に飛び込んでくる。しのぶは腹立たしげに新聞を裏返した。
(達彦さんに限ってそんなこと………)
しのぶは達彦以外の男性は知らない。しかし、達彦の方はどうだろう。しのぶには良く分からなかったが、しのぶとの初夜では(達彦は結婚するまでしのぶにキス以上のことをしようとはしなかった)、達彦の方は初めてではないように思えた。
しのぶと結婚して15年以上がたつ今でも達彦は週に一度はしのぶを求め、優しく愛してくれる。まさにしのぶにとっては理想の夫といえるが、達彦はしのぶ以外の女とは全く何もないのだろうか。
そういえば今日はそろそろ「かおり」に寄っていてもおかしくない頃だ。「かおり」のママは随分色っぽい女性だということを聞いたことがある。
「馬鹿なことを考えて……駄目ね」
「どうしたの、ママ」
思わず声に出していったしのぶの背中に娘の香奈の声がした。しのぶは驚いて振り向く。
「パパ、まだ帰って来ていないの」
ピンク色のパジャマに髪をツインテイルにして、やはりピンクの髪どめで束ねた香奈が立っていた。
香奈は顔の輪郭はしのぶに似てどちらかというとふっくらしているが、目許は父親の達彦に似てくっきりしている。その2つがあいまっていまだ子供らしい愛くるしさをたたえている。
「香奈ちゃん、まだ起きていたの」
「パパが帰ってくるかと思って……」
香奈は自分でもはっきり認めるほどのパパっ子である。達彦の方も長男の健一が生まれた時も確かに喜びの色は見せたが、香奈が生まれた時の喜びようはその比ではなかった。いぶかしげにたずねるしのぶに達彦は「しのぶの分身が生まれたようなものだから、うれしいのは当たり前だよ」と答え、しのぶはなんとなく釈然としない中にも納得はしたのだが。
「あ、香奈ちゃん、お風呂は?」
しのぶの問いに香奈は首を振った。
「駄目よ、今日は体育の授業もあったんでしょう」
「だって……」
「そうだ、久しぶりにママと入りましょう。いいでしょう?」
香奈はしばらく迷ったような表情をしていたが、やがてこっくりと頷いた。
成長した香奈と一緒に入れるほど湯槽は大きくない。しのぶは先に身体を軽く洗い、湯槽の中で香奈が入ってくるのを待った。
浴室の扉が開き、裸の香奈が現れた。しばらく見ない間に香奈の身体には幼さの中に、女へと変わって行く年頃特有の柔らかい線がはっきりと現れている。しのぶはしばし感慨にふけるように娘の裸身に見入った。
「やだ、ママ。そんなにじろじろ見ないで」
頬を染めて膨らみかけた乳房を両手で押さえた。
「ごめんなさい、でもしばらく見ない間に香奈ちゃん、随分大人っぽくなったのね」
「そんなことないわ。もう、嫌なママね」
香奈は頬を膨らませて椅子に座り、乱暴に体を洗い始める。子鹿を思わせるしなやかな裸身が眩しい。
(香奈ちゃんもいつか……私のように……)
好きな人と出会うのかしら、と熱い湯に浸りながらしのぶはぼんやり考えている。
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