1.蜘蛛の巣(1)

「まただわ……もう、いい加減に諦めてくれないかしら……」
3月のある土曜の昼下がり、遅めの昼食を終えたダイニングテーブルの上に置かれた妻の携帯が軽やかなメロディを奏でました。妻は受信されたメールを読むなり小さく眉をしかめましす。私は読みかけの新聞を置くと、妻に声をかけました。
「どうしたの」
「今年一緒に厚生部の役員をやった藤村さんから……どうしても来年、一緒に役員をやってくれって」
「また厚生部の?」
「違うの。今度はPTA本部の役員をやってくれって言っているの」
「どう違うんだ?」
「もう、あなたったら何も知らないのね。浩樹の学校のことは私に任せっきりなんだから……」
妻はため息を吐きます。
「PTAには本部と専門部があって、私が今年副部長をやった厚生部は文化祭でのバザーや、奉仕活動が担当なの。今度やってくれって言われているのは本部の書記だから、ずっと負担が大きくて大変なのよ」
「どうして絵梨子が頼まれているんだ?」
「藤村さんが次期会長になる犬山さんから頼まれて、会計を引き受けちゃったらしいのよ。それで一人では心細いから、私にぜひ一緒にって」
「言ったら悪いけど、それは藤村さんが勝手に引き受けたことだろう。絵梨子は断ってもいいんじゃないか?」
「それが藤村さんだけじゃなく、副会長になる橋本さんからも頼まれているのよ」
「橋本さんって誰だ?」
「A銀行の融資業務部にいた、一応私の上司だった人。今はどこかの店の支店長になっているけれど」
妻はほとほと困り果てたという表情をしています。
妻、絵梨子は今年42歳になったばかり。このあたりでは名の通った地方銀行であるA銀行でパートをしているかたわら、昨年は息子が通っている私立B高校のPTAの役員をしていました。役員の改選期にあたり、昨年よりも重い役職につかされそうになっているようなのです。
B高校は超一流というほどではありませんが、歴史も古く毎年それなりに進学実績もあり、県内の大企業や県庁、市庁にはたくさんのOBが勤めています。また元々地元の商人が共同出資して設立したという経緯もあり、OBには中小企業の経営者およびその二世が多いのも特徴です。
PTA役員の構成も、文化部や厚生部といった専門部は母親中心ですが、会長、副会長などで構成される本部役員は例年、B高OBである父親が多くを占めており、来年の役員候補も妻が推されている書記以外の会長と3人の副会長はすべて男性の予定だということです。
そういうこともあって妻と親しい藤村さんが女性一人だけでは心細いというので、気心の知れた妻を強く誘っているのでしょう。
ちなみに後で分かるのですが、妻以外の新しい役員(候補)のプロフィールは以下のとおりで、副会長候補の一人である橋本以外の男性役員はすべて自営業となっています。

PTA会長 犬山豊(52歳)ホテル・飲食店経営
副会長 毛塚新一(48歳)下着ブティック経営
副会長 橋本幸助(45歳)A銀行勤務
副会長 道岡竜太(44歳)整形外科クリニック開業
会計 藤村尚子(43歳)専業主婦

「あなた、ちょっと出かけてきます」
「どこへ行くんだ?」
「藤村さんに会って、直接断ってきます。今年は浩樹も受験だから役員は無理だって」
「今からかい? 藤村さんが会って話したいといっているのか?」
「ええ、横浜駅の改札で待ち合わせを……」
「そうか」
会えばかえって断れなくなるんじゃないのか。私は妻の性格からそう懸念しましたが、口にはしませんでした。会長や副会長ならともかく、書記であればそれほど大変な仕事でもないだろうと思ったのです。
また、家とパート先である銀行との往復ばかりの妻にとって、役員になるのは世間が広くなる良い機会ではないかと私は考えました。PTAの役員となる父親たちはそれぞれきちんとした仕事を持っており、そういった人たちと付き合うのも、男が外で仕事をする大変さを知る良いきっかけになるのではとも思ったのです。
「あなた、これでどうかしら?」
手早く着替え、薄く化粧をした妻はハンドバッグを持って私の前に現れます。パールホワイトのシャツブラウスと薄いグリーンのスーツ、そして同系色のスカーフを身につけた妻は、夫の私が言うのもなんですが、42歳という年齢が信じられないほど初々しく見えます。
165センチほどもある長身の妻は、一昔前にバレーボール選手として活躍し、現在はタレントである益子直美に良く似た目元のはっきりした容貌です。
明るめの栗色に染めた軽くウェーブのかかった短めの髪が新緑を思わせる服の色に良く映えています。私は思わず妻の姿をぼおっと眺めました。
「どうしたの? あなた」
「あ、ああ……いいんじゃない」
「そう? 良かった」
妻は優美な笑みを見せます。
「あまり遅くならないようにします。夕食の支度には間に合うように帰りますから」
「わかった」
「それじゃ、行ってきます」
妻は再びにっこり微笑むと、家を出ました。私はこの日、妻を外出させたことを後々まで後悔することになりますが、この時はそのようなことはまだ想像もしていませんでした。

息子は受験勉強のために図書館に行っています。私は録画したまま溜まっているビデオを見ながら休日を過ごしていました。ふと気がつくと時計は6時近くを指していました。
(もうこんな時間か……)
夕食の支度に間に合うように帰るといっていましたから、そろそろ妻は帰ってきても良さそうです。役員就任を断るというだけだから、それほど時間がかかるとは思っていませんでした。
(横浜まで出たついでに買い物でもしているのだろうか)
そんなことを考えていたとき、私の携帯に着信がありました。
妻からです。
「もしもし」
(……あなた……すみません、急に食事をしていくことになりまして、申し訳ないんですが、夕食は外で済ませていただけますか?)
「それは構わないけど……役員の話はどうなったんだ? まだ揉めているのか?」
(そういうわけじゃないんですが……すみません、帰ったらゆっくりお話します)
そう言うと妻はいきなり電話を切ってしまいました。
私は不審に思いながらも、藤村さんと話し込んで、そのまま食事をするということにでもなったのだろうと思いました。妻にしては珍しいことですが、PTA以外ではあまり外づきあいをしない方でしたから、たまにはそういうこともあっても良いだろうと思いました。

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