MENU

2.蜘蛛の巣(2)

私は暫くしてから図書館から帰ってきた息子といっしょに、近所の焼肉屋に行きました。高校生の男の子というのは食欲が旺盛で、見ていると気持ちよくなるほど食べます。私もつい釣られて食べ過ぎてしまい、また久しぶりに息子とゆっくり話し込んだため、家に帰ったら9時近くになっていました。さすがに妻は先に帰っているだろうと思っていたのですが、家は真っ暗でした。
(遅いな……)
私は少し心に引っかかるものを感じましたが、子供ではないのですから、42歳にもなる妻が帰りが9時になったからといって騒ぐほどのことではありません。私は風呂に入り、焼酎をロックで飲んでテレビを見ながら妻の帰りを待っていました。
いつの間にか時計の針は11時近くを指していました。駅から家までは歩くとかなり時間がかかりますので、通常はバスを利用しますが、休日ダイヤでならそろそろバスもなくなる頃です。すでにアルコールが入っていますので、車で妻を迎えに行くことも出来ません。私は心配になり、妻の携帯に電話をしました。
しかしながら応答はなく「電波の入っていない場所にいるか、電源が入っていません」というメッセージが流れるだけでした。
(歩いてでも迎えに行こうか……)
そう思って私が腰を浮かせかけた時、家の前に車が止まる音がしました。
玄関を開けて外に出ると、門の前にタクシーが止まっていました。私と同じくらいの年の、髪をオールバックにして縁なしの眼鏡をかけた長身の男がタクシーから降り、妻を抱きかかえるようにして下ろしています。
「絵梨子」
私が呼びかけると、妻はぼんやりした表情を向けました。かなり酒を飲んでいるのか顔は真っ赤に染まっています。
「ご主人ですか?」
オールバックの男が私を見て話しかけてきました。
「はい」
「はじめまして、私、B高校PTA副会長の道岡と申します」
「副会長さん?」
「はい、正確にはまだ候補ですが……。今年は文化部の部長をやっておりました。奥様とは部が違いましたが、いろいろお世話になりまして」
「そうですか、こちらこそ家内がお世話になりました」
道岡と名乗った男は私に向かって丁寧にお辞儀をします。
「今日は奥様に無理なお願いをしまして……わが校のPTAの現状などを詳しくご説明しているうちにすっかり遅くなりまして、誠に申し訳ございません。おかげさまで奥様もわれわれの活動の趣旨にご賛同いただきまして、快く役員を引き受けていただきました。ご主人にはこれから色々とご不自由をおかけすることになるかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします」
そこまで一口でいうと道岡は再び深々とお辞儀をします。
「そうなんですか? いや、こちらこそよろしくお願いいたします」
私も釣られてお辞儀を返しました。
道岡に抱きかかえられるように立っている妻は、苦しげに息をしています。
今日は藤村さんに会って役員就任を断りに行ったはずなのに、どうしてこうなったのだろう。私の頭の中に疑問符が渦巻きましたが、今はかなり酒に酔っているらしい妻を介抱するのが専決です。私は道岡から妻を受け取ると、背中をさすります。
「大丈夫か、絵梨子、しっかりしろ」
「あなた……」
妻は薄く目を開けて私を見ると、急に力が抜けたように私に寄りかかります。私は思わずよろけそうになりました。
「大丈夫ですか」
道岡は倒れそうなる妻を抱きとめます。
「運転手さん、ちょっと待って下さい。ご主人、一緒に家の中に運びましょう」
「は……はい」
道岡は私の返事を聞かないうちに靴を脱ぎ、玄関に上がりこんでいます。
「足の方を持って下さい、いいですね」
そういうなり道岡は妻の脇から手を回し、背中から上半身を抱えました。私はしょうがなく妻の足を持ち、2人がかりで妻をホールに運びます。
「ベッドまで運びましょうか?」
「いいえ、ここで結構です。ありがとうございました」
「そうですか、それでは私はこれで失礼します」
道岡はそう言うと、タクシーに乗り込みます。
「あ、道岡さん……タクシー代」
「ああ……私も帰る途中なので気にしないで下さい。それじゃあ、奥様によろしくお伝え下さい。今日は遅くまでお付き合いさせて申し訳ございませんでした」
そういうと道岡は運転手を促し、走り去っていきました。
私は道岡を見送ると、玄関の床の上で横向きに倒れて苦しげな息を吐いている妻に近寄り、抱きかかえるようにして起こしました。
「絵梨子、しっかりしろ……お前がこんなに飲むなんて珍しいな」
「ああ……あなた……」
妻がぼんやり目を開けて私を見ます。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「何を謝っているんだ。ああ……役員を引き受けてしまったことか。絵梨子の性格上、断れなくて結局そんなことになるんじゃないかと思っていた。悪いことをするんじゃないんだから、気にしなくていい。俺も出来るだけ協力する」
「そうじゃないの……そうじゃないのよ……」
「まあ、絵梨子もたまには羽目を外すこともあるだろう。今日は新役員同士親睦を深め合ったんだろう? しかし絵梨子は酒が強くないんだから、あまり外で飲み過ぎるんじゃないぞ。人様に迷惑をかけるからな」
私はなぜか「ごめんなさい」と繰り返している妻を寝室に連れて行くと、皺になった薄いグリーンのスーツとシャツブラウスを脱がし、蒲団をかけようとします。
(おや?)
私の目に、見慣れない妻のパンティが目に止まりました。黒い縁取りのある、豪華なレースをあしらった薄いピンクのものです。
(絵梨子のやつ、こんな下着を持っていたかな?)
妻はいつの間にか寝息を立てていました。私は若干の違和感を感じつつそのまま妻に蒲団をかけると、自分もパジャマに着替えました。

翌朝は日曜日です。7時半頃に起きた私が隣のベッドを見ると、妻の姿はありませんでした。
(もう起きているのかな)
私は目をこすりながら洗面所に向かいます。隣の浴室からシャワーの音が響いてきました。
(絵梨子……朝っぱらからシャワーか?)
だいぶ暖かくなってきたとはいえまだ3月の末です。朝からシャワーを浴びたくなる季節ではありません。
(風邪をひかなければ良いが……)
そう思った私は、扉越しに妻に声をかけます。
「絵梨子」
シャワーの音が大きいためか、返事がありません。私は少し声を大きくしてもう一度妻の名を呼びました。すると、浴室の中のシャワーの音がやみました。

\ 最新情報をチェック /

コメント

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました