私はチケットを買い、ヘッドセットをつけて里美の部屋にログインします。ログインに気づいた里美が顔を上げ、ヘッドセットをつけました。目許がはっきりしたその顔立ちの意外な美しさに、私は少し驚きました。
「こんにちは」
「下田さんから聞いていた人ね」
「どうしてわかるの?」
私は少々驚きました。
「下田さん、昨日も来たのよ。今週末には必ず来るからよろしくって、私に言ってたわ」
「ふーん」
なんとなく下田に行動を読まれているような気がして私は引っ掛かりましたが、里美という女への興味がそれに勝ります。
「何の本を読んでいたの?」
「これ? 藤沢周平よ」
里美はカメラに向かって文庫本の表紙を突き出します。『隠し剣秋風抄』というタイトルが画面に映ります。
「へえ……」
藤沢周平は私が大好きな作家の一人ですが、ジャンルは時代小説で、里美のような若い女が読むのは珍しく感じました。
「確か今度映画化するんだよね」
「映画には興味がないわ。真田広之が出た最初のを見たけど、全然面白くなかった」
「そう?」
実は私もその映画を観たのですが、同じ感想をもちました。映画としてはさほど悪くなかったのでしょうが、原作の時代設定を無理やり幕末に持って行く理由が分かりませんでした。
「あれだけ原作を滅茶滅茶にすることを作者の遺族がよく許可したと思うわ」
私はしばらくの間里美と、小説談義を続けました。話題が映画、音楽と広がっていくうちに互いの趣味が非常に似ていることに気づき、驚きを新たにしました。
30分ほど話しているうちに机の上の電話が鳴りました。
(専務、お約束のC社の方がお見えです。応接にお通しています)
「ああ、わかった。すぐに行く」
私は電話を置くと、ログオフすることを里美に告げます。
「全然エッチなことをしなかったけど、よかったの?」
「ああ、話していて面白かった。また付き合ってよ」
「いいけど……変わっているのね。下田さんなんか最近はいきなり脱がせに来るわよ」
「俺もそうするかも知れないよ」
「いいわよ。素っ裸で好きな本を朗読して上げましょうか」
「考えておくよ」
私はそう言うとログオフし、里美の箱は待機中に戻りました。
C社との商談が思ったより長引き、やはり会社を出るのは遅くなりました。10時頃に家に着いた私を妻が迎えます。
「お帰りなさい」
「ただいま……」
妻は外出用の薄いピンクのブラウスを着て、化粧までしていました。私は少し意外に思って妻にたずねます。
「どこかへ出かけていたのか?」
「いえ、今日はずっと家にいました」
「しかし、その格好は……」
「ああ、これですか」
妻は自分の姿に初めて気づいたように微笑します。
「ちょっとパソコンに向かっていたので」
「インターネットか? どうしてよそ行きの格好でやらなきゃならない?」
「それは……こっちへ来てください」
私は妻に導かれてリビングに行きます。テレビの横に新しいPCとプリンタ、CCDカメラにそしてヘッドセットが置かれていました。
私は昼間の里美のことを思い出し、一瞬妻がライブチャットのバイトでも始めたのではないかと思いました。
「なんだ、これは? チャットレディのバイトでも始めたのか?」
「チャットレディ? それはなんですか」
妻は首を傾げます。チャットレディについて説明すると妻は思わず吹き出します。
「嫌だわ。そんなことをするはずがないじゃないですか。これはB高校の備品です」
「B高校の備品だって? なんでそんなものが」
そこまで言いかけた私はやっと下田の話を思い出しました。彼の会社が開発したセキュリティ機能付のTV会議システムが、B高校に導入されたというものです。
確かにPCや大型液晶ディスプレイの脇には、リース会社とB高校の備品管理番号が書かれたシールが貼付されています。ようするにB高校PTA役員会用の端末が、家に置かれたというわけです。
よく見るとPCは家庭用というよりは、ワークステーションに近い高性能なものです。WEBカメラも量販店で1万円以下で売っているようなものではなく、業務用の製品のようです。PCから伸びているケーブルが見慣れないルータにつながれています。
「これは何だ?」
「ああ、光ファイバーの工事をしてもらったの」
「光ファイバーだと? 今のADSLじゃ駄目なのか?」
「全然スピードが違うっていうの……それにこの工事費や通信費も学校が払ってくれるのよ」
「そうなのか……」
PTAの役員会だけのためにこれだけの投資とは、私立高校とはいえ豪勢なものです。かなりの部分を会長やほかの役員が出しているとは言え、高い学費がこういうものに回っていると思うとやや複雑な気分です。
しかし、妻が役員をやっていることから投資の恩恵を直接的に受けるのはわが家ですし、妻も参加している役員会で決めたことなのでしょうから、文句も言えません。
「それで早速PTAの役員会をオンラインでやっていた訳か?」
「こんな時間にまさか……。ちゃんと開通したかどうかのテストをしただけです。会長の犬山さんのPCとつながっているかどうか確認しました。詳しいことは来週末の旅行の時に決めようと話しています」
妻はおかしそうに笑います。私がふと妻の胸元に目をやりました。妙に開放的な感じがすると思ったら、妻は下着を着けていないようです。
「絵梨子、お前、ブラをしていないのか?」
「えっ」
妻はあわてて胸元を押さえます。
「お風呂に入ってパジャマに着替えていた時に犬山さんから電話があって、今からテストをしたいと言われたので、慌ててもう一度着替えました」
「どうしてブラを着けなかったんだ」
「だって……画面はすごく粗いし、ちょっと見ただけじゃわからないでしょ」
「そんな問題じゃないだろう」
確かに昼間見た里美の姿も、それほど鮮明な画面とはいえませんでした。しかし、いかにライブチャットのような粗い画面越しとはいえ、妻がノーブラのままの姿を他の男にさらすというのはよい気分がしませんでした。
妻はどちらかというと羞恥心が強く、胸元の開いた服やミニスカートなどはめったに着ません。それにもかかわらずこの開放的な態度は腑に落ちません。家の中にいるということがガードを低くしているのでしょうか。
「とにかく、テレビ会議は基本的には人と会っているのと同じだから、だらしない格好は駄目だ」
「わかりました。以後気をつけます」
妻は神妙に頷きました。
7.里美(2)

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