12.変化(1)

「御疲れのせいか、奥様が気分を悪くされたようなのでお送りしました」
「そうですか、どうもお世話をかけまして申し訳ございません」
私は怒りを表情に出さないよう必死でこらえながらそう言いました。ぐったりとした妻は橋本に寄りかかるようにしながらようやく立っているという状態です。
「絵梨子、大丈夫か」
私は妻を橋本から受け取ります。一瞬目を見開いた妻に恐怖の表情が浮かびましたが、私だと分かって安心したのか目を閉じます。
力が抜けて私に抱かれるようにしている妻を、橋本はじっと見つめています。私はその目に欲情の名残があるような気がして、腹立たしさが増します。しかし、証拠が取れるまで我慢して、という里美の言葉を思い出し必死でこらえました。
「寝室まで運ぶのを手伝いましょうか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
私はこれ以上妻の身体に触れさせるのが嫌で、そう断ります。橋本はしばらく名残惜しそうに妻を眺めていましたが、やがて「それでは、失礼します」と言って停めてあったタクシーに乗って帰って行きました。
私は妻を抱き上げて家の中に入り、寝室のベッドに横たえました。その時私はふと、新婚旅行から帰って来てはじめて妻と新居のマンションに着いた時のことを思い出しました。
私はいきなり妻を抱き上げて新居に入りました。古い洋画では良くみられるシーンですが、そんな知識のなかった妻は一体何をされるんだろうと驚いたと、後で笑いながら話していました。
今はその時とは全く違い、私達夫婦の幸福な生活は犬山たちによって脅かされています。連中の狡猾な手口に対抗するためには、それを上回る知恵と行動力で対抗しなければなりません。里美という強い味方が出来たものの、彼らとの戦いは相当な厳しさが予想されます。時には怒りや復讐心といった感情をぐっと抑えなければならない場面もあるでしょう。
「ああ……それは嫌……」
ベッドの上でぐったり眠っている妻が、呻くような声を上げて身体を捩らせました。
「もう……もう……十分でしょう」
さらに妻は小声で叫ぶようにそう言うと身体をぐっとそらせます。
やがて力が抜けた妻は静かな寝息をたて始めました。私は妻に蒲団をかけると、寝室を出ました。

翌日、いよいよ私の会社に会議システムが導入されました。午前中に下田の会社の営業マンと技術者が来て、私や社長、その他経営幹部のPCにソフトをインストールし、ハードの設定を行いました。導入そのものは簡単に終わり、テストを開始します。
予想以上の画質・音質に私と一緒に興味深げにテストをみていた社長は「おおっ」と声を上げました。
多くの人間が一斉にアクセスしてくるライブチャットとは違い、映像データをほぼ無圧縮で送ることが出来るためか、液晶画面に写し出された画像はDVD並みとまでは行きませんが、標準モードのビデオ程度の高品質のものです。TV会議特有のカクカクした動きもほとんどないため、ストレスなく見ることが出来ます。
私は下田の会社が開発したシステムに素直に感心するとともに、妻の痴態がこんな鮮明な映像で犬山たちに晒されているのかも知れないと思い、怒りを新たにしました。
昼休みになり、私は里美を呼び出します。今日の里美は本は読んでいません。PCに向かってしきりに何やら作業をしているようです。
「里美」
「ああ、東山さん、会議システムは入った?」
「入ったよ。思った以上に画像も音声もきれいだ」
「そう、それじゃあどうしようか……私もそのシステムが使えないと困るわ。東山さんの会社に行ければいいんだけれど、そうも行かないでしょう? 導入用のアプリケーションとマニュアルが入ったCDをイメージファイルにして、私が言う場所にアップしてくれるかしら? それと下田さんからもらったIDとパスを教えて」
「うーん、それは」
そうなると社員でない里美が、うちの会社の会議システムにも入れてしまうことになります。
「東山さんが心配していることは分かるけど、他にうまい方法はないよ。どうせあと3週間少しで切れてしまうIDなんでしょう? 私を信用出来ないのならそれまではあまり重要な会議はTV会議ではしないでと言うしかないわ」
「わかった。里美の言う通りだ。そうするよ」
私は決断しました。会社の人間としては失格かも知れませんが、このままでは仕事に身が入らないのも事実です。ライブチャットで知り合った娘を信用するというのもおかしな話ですが、今の私は里美の助けなしではこの問題を解決出来そうにありません。
私は里美に言われた通り、アプリケーションとマニュアルの入ったCDロムをイメージファイルにして送ります。同時に下田からもらったIDとパスもメールで送りました。1時間もたたないうちに里美から「設定完了」というメールがありました。
「ちょっとテストしてみたいわ。今日はシステムは使わないの?」
「16時から社内テストをかねて、業務報告会をやることになっている」
「そこに侵入してみるわ」
報告会は社長、私、開発部長、管理部長の4名で予定どおり開催されました。といっても2人の部長はTV会議システムが初体験ですから、素朴に驚いたり喜んだりしています。
参加者が4名のため、画面は4分割されています。特に指示をしなければ発言をしている人間の枠が全体の二分の一以上まで大きくなり、その間他の参加者の枠は周辺に寄ります。特定の参加者を画面一杯に表示し続けることも出来ます。
「これだけ奇麗だとちょっとした放送局が出来ますね。もう一つネットを組んで会員向けの番組を流したらおもしろいんじゃないですか」
開発部長が感心してそういいます。
「どんな番組だ?」
社長がたずねます。
「それはもちろんAVでしょう」
「普通のAVならストリーミングで十分だろう。会員向けということで過激なものをやると犯罪になるぞ」
「そう言われればそうですな……」
開発部長が画面の中で腕組みをします。
「このシステムで出来るビジネスがあるとすれば、会員向けの情報サービスだ」
「情報サービスですか?」
「そうだ。物販はすでにネットでかなり普及している。しかし情報ビジネスはネットでは金にならない。なぜかというと誰にでも見られてしまうからだ。会員制のウェブサイトというものももちろんあるが、双方向性が薄く、今一つ勢いがない。このシステムならその欠陥が補える」
「例えばどういうものですか?」
「占い」
社長の言葉に開発部長が感心したように頷きます。
「なるほど、これだけ奇麗な映像なら十分占いの演出が出来ますね」
「それに1対1で利用出来るというのが重要だ。今流行のライブチャットにも向いているが、コスト面で折り合わないだろう」
私は社長の発想に感心しながらも、里美のことが気になっていました。本当に今、この会議を覗くことが出来ているんでしょうか。もしそうなら私を含め会議参加者は誰も気づいていませんから、私や里美が役員会のTV会議を覗くことも可能ということになります。

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