第32話 新たなる生贄(1)

「あなたっ、道夫さんっ、返事をしてちょうだいっ」
小椋裕子は携帯電話を握り締め、必死で呼びかける。
(ゆ、裕子っ)
(ああっ、いいわっ)
大勢の客が興奮して騒ぐ中、裕子は道夫が自分に呼びかける声をはっきり耳にした。しかし、それに対して激しく喘ぎながら甘い口調で答えているのは自分ではない、裕子にも確かに聞き覚えのある女の声である――。
(まさか……)
裕子の胸をたちまちどす黒い黒雲が覆っていく。
「道夫さんっ」
裕子が思わず大声を上げたとき、いきなり電話口に別の女の声がした。
(そんなに大きな声を出して大丈夫なの? 小椋さんの奥様)
裕子は心臓が止まるような驚きを感じ、思わずあたりを見回した。
(お子さんが起きてきても知らないわよ)
寝室に置かれている時計は深夜の12時過ぎを指している。今年から慶応大学に通い出した長女の貴美子、そして東中の3年生である次女の里佳子はしばらく前に眠りにつき、裕子はひとり寝室で道夫からの連絡を待っていたのだった。
まるで今の自分の様子を見透かしたような女の口ぶりに先制攻撃を受けたように、裕子は動転した。
「あ、あなたは……」
(……あら、もうおわかりでしょう、奥様。私が誰かなんて)
女はさもおかしげにクッ、クッと含み笑いをする。
(それよりも大変よ、あなたのご主人と加藤さんの奥様が、今うちのお客様の前でおセックスの真っ最中よ)
「え、ええっ!」
裕子は頭を殴られたような衝撃に思わず大声を上げる。
(まあ驚くのも無理はないかも知れないわね。だけど、うちも困っているのよ。いくらお互いのご主人や奥様に拒まれて欲求不満になっているとはいえ、店の中でおっぱじめられたんじゃたまったもんじゃないわ。そろそろ警察に連絡しようかと思っていたところなのよ)
「け、警察ですって!」
裕子は再び悲鳴に似た声を上げる。
(さっきもいったけれど、大声を出さないほうがいいんじゃないの、小椋さんの奥様。お子様に聞かれてもいいの?)
「ど、どういうつもりなんですか、夫に一体何をしたのっ」
(何を言っているのか分からないわ。おたくのご主人がうちの店で、加藤さんの奥様と意気投合していきなり始めちゃったのよ。警察に通報されたくないのなら今すぐご主人を引き取りに来て頂戴)
裕子は混乱した頭を必死で落ち着かせようとするが、電話の声は裕子に容赦なく追い討ちをかける。
(奥様が来れないのなら、娘さんに連絡を取りましょう。上の方は貴美子さんで良いのよね? ご主人の携帯にちゃんと番号が登録されているわよ。お父さんの気持ちよさそうな声を聞かせてあげることにするわ)
「ま、待ってっ」
裕子は慌ててすがるような声を出す。
「そ、そんなことはやめてっ、やめてくださいっ」
(それじゃあ、奥様が引き取りに来てくれるのね?)
「……は、はい、まいりますわ」
(すぐに来るのよ。10分以内で来ないと娘さんに連絡するわ)
「じゅ、10分ですって」
裕子は悲痛な声を上げる。
「そんなっ、無理ですっ」
(無理なもんですか。お得意のジョギングですっ飛ばしてくるのよ。何度もいうけど10分たっても来なければ貴美子さんに連絡するからね)
「あ、あっ、待って……」
無情にも電話は切られ、裕子は携帯を握り締めながらしばし呆然と立ち尽くした。
携帯の画面に表示される時刻は、12時10分を示している。確かにここから「かおり」まで裕子の足で走れば7、8分といったところである。無理をすれば間に合わないこともないのだ。
(い、急がなくちゃっ)
裕子は考える余裕もなく慌ててパジャマを脱ぎ、パンティ一枚の裸になるとジョギングウェアをタンスから引っ張り出し、すばやく身につける。いつものようにスポーツブラを着けるゆとりもない。
こんな時間に女一人で夜道をジョギングするなど正気の沙汰ではない。しかし、今は非常事態である。
携帯の向こうから聞こえてきた、香織が言うように明らかにあの時と思われる淫靡な声は確かに道夫としのぶのものだと思われる。どうしてそんなことになったのかさっぱり分からないが、自分が夫に頼んだスパイめいた行為がとんでもない結果を招き寄せたのだと思うと、裕子はいても立ってもいられなかった。
まして娘を巻き込むなど考えられないことである。貴美子も里佳子もお父さん子と言ってよく、一流商社マンでやさしい父親でもある道夫に対して男性の理想像を見てきたのだ。それを自分の軽はずみな行為で崩壊させてはならない。
裕子は緊急出動する消防士並みの手早さで着替えを済ませ、ジョギングシューズを履いて外に出ると、携帯電話一つを握り締めて走り出した。

「ギリギリセーフよ、おまけに決定的なシーンに間に合ったわ」
香織はさも楽しげにクスクス笑いながら、扉を開けて裕子を迎え入れる。
全力疾走で「かおり」にたどりついた裕子は、はあ、はあと息を切らせ、苦しげに肩を上下させている。店の中に入った裕子は、狭い店内を埋め尽くした客の異常な熱気を感じ、走っている間は一時的に収まっていた不安が再び胸の中を覆う。
「しゅ、主人は……」
「さあ、さあ、特等席に来るのよ、奥様。ご主人の晴れ姿を見てあげて」
香織は裕子の問いには答えず、肩を抱えるようにして裕子を引き立てる。
「や、やめて……主人はどこなの」
「みんな、通してあげて。特別ゲストの登場よ」
店内の男たちはジョギングウェア姿の裕子に気づき、歓声を上げる。
「今日は2人も新顔がいたのかい、こりゃあ驚きだ」
水割りのグラスを手にして舞台の前に陣取っていた脇坂が振り向くと、裕子の顔を見て目を丸くした。
「あんたは……」
「あら、脇坂さん、お知り合いなの?」
香織が楽しげに、裕子と脇坂の顔を交互に見る。
「知り合いって訳じゃあないが……」
脇坂は口を濁すが、その瞳は邪悪そうな光を湛え、裕子の全身を嘗めまわすようにしている。東中のPTA会長である裕子のひときわ目立つ長身と輝くような美貌は父兄の間でも有名である。
どちらかといえばロリータ好みであり、しのぶのことも知らなかった脇坂が裕子の顔にはっきりと見覚えがある理由はそれだけではない。かつて東中の運動会で脇坂がしのぶの娘の香奈や、裕子の次女である里佳子のショートパンツ姿を執拗にビデオカメラで狙っていたとき、父兄からの苦情を受けた裕子にこっぴどく注意されたことがあるのだ。

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