第163話 蟻地獄の妻たち(1)

「そ、そんなことっ。ある訳がないでしょうっ」
「さあ、どうだか」
圭子は勝ち誇ったような表情で摩耶を見下ろす。
「いずれにしても吸い上げたデータを見れば分かることだわ。さあ、どんなものが飛び出すのかしら、楽しみだわ」
香織が4人の人妻を順に見回しながらそう言うと、急に語気を強める。
「さっき撮影されたとんでもない姿が家族や親戚、学生時代の友人や、PTAの母親連中に送られたくなければ言うことを聞くのよ。いいわね」
香織に決めつけられた4人の女役員はしばらく互いに顔を見合わせていたが、やがて誰からともなく頷く。
「黙っていたんじゃあ分からないわ。横着しないで返事をしなさい!」
香織がさらに語気を強めると4人の女は口をそろえて「分かりました」と返事をする。
「それじゃあ早速事務手続きから始めるわ」
香織が龍に目配せすると龍は頷き、フォルダの中から何枚かの書類を取り出し、香織に手渡す。香織はそれを一枚一枚確かめながら4人に配っていく。
「これは……」
書類に目を落とした昌子が訝しげな目を香織に向ける。その「金銭消費貸借契約書」と題された書類には以下のような事柄が記されていた。

・池谷昌子(以下甲という)は世良香織(以下乙という)から金90万円を借り受ける。なお、金利は月利10パーセントとする。
・借入金の返済のため、甲は乙が経営する飲食店にてコンパニオンとして週1日以上勤務する。
・甲の日当は一日2万円とし、当月分を月末に支払う。甲の日当はまず乙よりの借入金の金利の返済に充当し、残りを同じく元本の返済に充当する。

「お、お金はまず小椋さんと加藤さんに請求すべきじゃないんですかっ」
昌子が抗議の声を上げるが、香織は一笑に付す。
「馬鹿ねえ。あの2人が払えるわけないじゃないの。即時弁済出来ない場合はあなたたちに請求するといったでしょう」
「私は30万円と聞いていました。この書類は60万円になっています」
奈美が悲痛な顔を圭子に向ける。
「私の負担分をあなたと岡部さんに乗せたのよ」
それまで黙っていた春美が口を開く。
「福山さんは自分の負担分は払うと言ったはずじゃ……」
「どうしてそんなことをしなければならないの」
春美がさもおかしそうにケラケラ笑う。
「私とあなたたちとは違うのよ。ホスト狂いの小椋さんや加藤さんの後始末は同類の淫乱女のあなたたちがするのがふさわしいわ」
嘲るようにそう言う春美を、奈美は呆然と見つめている。
「私の負担は60万円のはず。どうして90万になっているの!」
借用書に目を落とした美智恵が悲痛な声を上げるが、圭子がぴしゃりと遮る。
「それは広報の前田さんの負担分よ」
「そんな……どうして私が前田さんの分まで……」
「それじゃあ池谷さんにもっと乗せた方がいいというの? 責任の重い三役以外の岡部さんや山崎さんに負担させるの?」
詰め寄る圭子に美智恵は言い返せず、気弱に首をたれる。
「……これは奴隷契約よ。絶対に認められないわ」
摩耶が再び顔を上げて抗議するが、香織は余裕たっぷりの表情で摩耶をからかう。
「その通り、奴隷契約よ。ようやく奴隷としての身分を理解したのかしら」
香織はさもおかしそうにクスクス笑う。
「話を逸らさないでっ。こんな風に労働の対価と借金を相殺するのが奴隷契約だと言っているのよ。お給料は現金で満額払わなければならないというのは法律で決まっているのよ」
摩耶は負けじと続ける。
「60万円払えと言うのなら払うわ。それくらいのお金はなんとかなる。こんな契約は認められないわ」
「全員がそうなのかしら」
香織が4人の人妻を順に見渡すが、昌子と美智恵が気弱に俯く。
「私は……無理です。90万なんて」
「私も……主人になんと説明すればいいか」
「あなただけは抜けることが出来ても、他の役員は受けざるを得ないのよ。それとも岡部さんが全員の分を払ってくれるのかしら? それなら考えてもいいわよ」
「それは……」
さすがに300万円もの金を自分ひとりの才覚ですぐには用意出来ない。
「60万円や90万円くらいの借金なら、分割ならなんとか返せます。別にコンパニオンなんかしなくたって」
「90万円を月利10%で借りれば、金利だけで月9万円よ。元金も1年以内に返そうと思えば毎月の支払いは15万円にもなるわよ。それだけのお金をどうやってつくるつもりなの?」
香織の言葉に奈美は言葉を詰まらせる。
「金利が高すぎるのよ。月10%なんてありえないわ……」
美智恵が香織を恨めしげににらむ。
「それじゃあサラ金にでも行く? それこそ返すあてはあるというの? 消費者金融に手を出して一度でも返済が滞ると、たちまちブラックリストに乗るわよ。ご主人のお仕事に差し支えないかしら?」
香織の言葉に4人はいっせいに沈黙する。
一見優雅なニュータウンでの生活だが、やや分不相応とも言える一戸建てを多額のローンを組んで購入しているためそれぞれ内実は厳しい。それにどの家族もこれから高校、大学へと進む子供がおり、教育費の負担はますます増えてくる。
一方、ニュータウンでは人口に比して働き場が少なく、主婦がパートを見つけるのも至難の業である。摩耶のようにある程度手に職があれば別だが、それこそスーパーのレジ打ち程度しかなく、中流を自認している彼女たちのプライドを満足させるものではないのだ。
「週に一度くらいならPTAの打ち合わせとかなんとか理由を付けて出て来れるでしょう? そこで4、5時間お客のお酒の相手をするだけで2万円、時給換算したら4、5千円にもなるのよ。お金も貸して上げれば、割りのいい仕事まで提供して上げようというのよ。感謝されても良いくらいだわ」
「でも……」
昌子がおずおずと口を開く。
「週1回、月に4回働いても8万円にしかならないわ。それじゃ金利にも足りません」
「広報の前田さんに手伝ってもらえばいいじゃない」
「前田さんに……」
「彼女に60万円負担させれば、池谷さんと長山さんの負担額を30万円ずつ減らすことが出来るわ」
圭子の言葉に思わず昌子と美智恵は顔を見合わせる。
「そもそもあなたたちに選択権はあるのかしら?」
香織は楽しそうに4人の携帯を弄ぶ。
「さっきあなたたちは言うことを聞くと誓ったでしょう? ここで即答してもらうわ」
昌子は苦しげに表情を歪めていたが、やがて「わかりました」と頷き、ボールペンを手にする。

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